201906_reiwa

「令和」新時代に思う

「令和」新時代の幕が開きました。祝賀ムードに満ちた巷を見るにつけ、やはり「新しい」ということは善である、という哲学を世の人々は持っているんだなあと感じたりします。

ただ、経営的な観点からすると、常日頃から私が大切にしていることはある種の変わらないという「頑固さ」なんです。「他人の芝は青く見える」と言いますが、自分の会社が良かろうが悪かろうが、同業他社ではこうだとか言われようが、頑固に自社の社風や社会に対するスタンスを守りたいと思っています。

自社のやり方を変えない理由は「昔からこうだから」という理由一点で十分だと思っています。トモエ自工は中小零細企業であり先行き不透明な現代を根強く泥臭く生きていかねばなりません。自社だけはどうしても生きぬかなければという「法人版エゴイズム」を頑固さの根底に持っていたいのです。

このエゴイズムが素晴らしいものだと思っているわけではありませんが、「トレンド」を気にして時代の流れに乗り遅れまいとして他社や業界の動向ばかりを気にする根っこの無い虚栄心よりははるかに信用できるスタンスだと思っています。会社経営は保守的であるべきだし、本来の保守こそ最も過激な在り方のはずです。それこそが「重力に抗う」姿勢なのです。

わずか20年前、200t吊りの油圧クレーン車が、ある会社に納車されることはその納車される地域にとって「大事(おおごと)」でした。それが今日、200tどころか300t、400t、果ては、800t、1200t吊りのクレーン車が日本国内にゴロゴロ存在しています。120tなど20年前の50tくらいの感覚で保有されています。

工法が変わったからですか?吊るものの重量が重くなってきたからですか?私は違うと思っています。

「金融」が付いたからです。銀行、リース会社にお金が余っていて、動産担保融資の名のもとに「機械金融」をやっているのです。金融会社は資金を融資する理由付けが欲しいだけです。実際、その機械が道具として使用されていようがいまいが、そんなことはお構いなしです。そして、現物を見にも来ないから、機械が無くなっていても気づかない有様です。

建設機械には道具として使用する側面と資産として運用する面が存在するのは確かです。ただ、道具として使用することが導入の主たる目的になっていなければ、時間の問題でその「投資」は破城します。「即時一括償却」が取れるからという理由で建設機械を設備投資するのは、やはり「邪道」であり本末転倒です。ましてや、使用しないで保管していただけの新車クレーンが買ったときより高く売れるなんてことが続くわけないことは冷静になれば誰にでも判ることのはずです。

私はこんな仮想現実がトレンドとして幅を利かせる世の中だからこそ、「令和」新時代において、自身や会社が「人間」であることの確認をしたいと思っています。その確認とは、

  • 本業を軸とした「労働」をしているか
  • 新しい価値を創造する「仕事」をしているか
  • 自分の身近な社会に貢献する「活動」をしているか

の三点です。

法人であれ個人であれ生存のリアリティを確認できない状況は持続的な成長にはつながらないと感じています。仮想現実の中で身体が急激に膨張しても醜悪なだけで、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」ようなことには絶対にならないですよね?

投機やデリバティブは儲かろうがなんだろうが美しくないので嫌いです。